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盛田家について

歴 史


14代久左エ門(後列左端)
13代久左エ門(後列右端)
12代久左エ門(前列中央)
(1907年頃撮影)

ソニーの創業者盛田昭夫の実家で、江戸時代初期にさかのぼる。盛田昭夫は第15代久左エ門にあたる。

知多半島の中央部の愛知県小鈴谷村(現常滑市小鈴谷)で初代盛田久左衛門が酒造業を創業した。天和元年(1681)の尾張藩の酒造調査によると寛文5年(1665)より造っていたことが記されている。小鈴谷の庄屋をつとめ尾張藩の保護のもとで酒造業を拡大していった。

その後、宝永5年(1708)味噌溜の醸造を開始。7代目、8代目久左衛門の頃、江戸に清酒を販売し家業の拡大がされた。しかし天保6年(1835)9代目の頃、年々、灘、伏見の巻き返しに合い、大幅に落ち込んだ。10代目久左衛門英親(ひでちか)と第6子の弟、久左衛門命祺(めいき)(1816〜1894)は醸造法の改良を行い、灘、伏見に負けない品質の清酒を醸造して挽回を図った。この命祺の醸造法革新は後に福沢諭吉が自著「時事小言」の中で命祺の直話を記し、事細かに書き残している。

歴代盛田家当主

初代 久左衛門  (〜1644)
2 代 久左衛門  (〜1632)
3 代 久左衛門 正家 (1624〜1689)
4 代 久左衛門 正治 (1648〜1706)
5 代 久左衛門 敬平 (1689〜1751)
6 代 久左衛門 正諸 (1621〜1748)
7 代 久左衛門 命郷 (1733〜1779)
8 代 久左衛門 命照 (1753〜1802)
9 代 久左衛門 命親 (1774〜1843)
10代 久左衛門 英親 (1799〜1858)
11代 久左衛門 命祺 (1816〜1894)
12代 久左エ門 命彦 (1837〜1906)
13代 久左エ門 命昭 (1866〜1934)
14代 久左エ門 命英 (1887〜1964)
15代 久左エ門 昭夫 (1921〜1999)
16代 久左エ門 英夫(英粮) (1953〜)

安政5年(1858)兄の英親が亡くなると命祺が11代目久左衛門を引き継ぎ、家業の安定を図った。そのひとつに「多角経営」に乗り出し、隣村の酒造家・陸井太右エ門と協力し千石船を三艙購入し、御前崎、清水、下田に寄港する江戸航路を拓いた。帰り船には江戸で買い入れた干鰯、〆粕を乗せ、碧南や西尾に肥料として販売した。半田の酢、自社の子の日松の清酒、味噌、溜を江戸に売り、大いに売り上げを伸ばしていった。又、嘉永6年(1853)半田の3代目中埜又左衛門、その同族7代目中埜半六とともに木綿問屋を買収し、木綿店を開業、多角経営を行った。明治維新を迎えたとき、更に積極策として醤油の醸造を始めた。

商品の品揃えが出来た明治8年(1875)命祺は4代目中埜又左衛門とともに、山本長五郎(清水の次郎長)の協力を得て清水に中泉現金店を開設し、駿河湾から東京への販路を拡大して、順調に事業を伸ばした。

また、命祺は経営基盤を固めた後、公共事業にも乗り出し、天保の飢饉の時には兄英親と協力し、村人を救うため食べ物やお金を与え、小鈴谷の白山神社の改築には20年間にわたり5千円を超える寄付を続けた。また、小鈴谷港や海岸に石堤を築き海岸道路の補修もした。その間、明治政府の学校制度にも目を向け、溝口幹を教師に選び、小学校の創立に全面的な支援を始めた。その後、高等小学校にあたる私塾「鈴渓義塾」を創設し、優秀な人材を送り出した。

更に、知多半島の将来のため武豊・六貫山を開墾し、ブドウ園を経営しワイン造りをめざした。しかし、全国的にブドウ苗に害虫が発生し命祺の夢は潰れた。その後、12代目13代目と引き継いだが、酒は低迷し、新しい醸造家の味噌・醤油の醸造は増大し、盛田家の売り上げは低迷していった。


13代久左エ門「子の日(ねのひ)松」の酒樽と
(1907年頃撮影)

13代目は挽回を計るため、親類縁者の資本を加え盛田合資会社を設立した。しかし、知多郡内の同業組合の粗製濫造の安価な粗悪品でも貧しい郡部の人々にとっては調味料として十分であり、盛田の直売商品はいたるところで売り上げが減少していくばかりであった。13代目は資産が目減りしていくのを止められなかった。

13代目の嫡子彦太郎は明治20年生まれで、盛田善平(カブトビール、敷島製パンの創業者)の妹、ちよを母に持ち、骨董趣味の祖父と家業に手をこまねく父を見て育った。

少年時代の彦太郎に最も強く影響を与えたのは、曾祖父の命祺であった。彦太郎7歳の時に命祺は死去したが、多角経営で盛田の礎を築いた命祺のような人間になることを心に誓って育った。また、「鈴渓義塾」で学び、溝口幹から直接薫陶を受け、母の兄、盛田善平を見本に実業界に目を向けたのである。善平は叔父の4代目中埜又左衛門からカブトビールを任され、半田に洋風赤レンガのビール工場を作り全国販売を始めた。9歳になった時母親とともに半田のカブトビール新工場の完成式に出かけ、命祺の作った大道を歩き武豊駅に着くと、人力車や蒸気機関車など、初めて目にする文明開化の産物に驚いた。驚きと感動を胸に、10歳になると鈴渓高等小学校に進学し、善平が「鈴渓義塾」第1期生であることを誇りにもって、上級生石田退三(当時は沢田)とも勉学に遊びにいそしんだ。退三の卒業後、4年生になると更に勉学に力を入れた。


後列左より:昭夫、和昭、正明
前列左より:收、14代久左エ門、菊子
(1940年撮影)

卒業後、安城農林で学び、更に慶應義塾大学に入学し、経済学を学び、盛田家を立て直す考えであった。しかし慶應義塾大学2年目に12代目が死去し、葬儀に帰った彦太郎は大学で習得した知識で盛田合資会社と盛田家の資産をチェックし、売り上げの大幅減少と、盛田家の資産が12代目の桁外れの骨董収集により殆どなくなっていることに驚いた。13代目当主の父親は温厚な人柄で、盛田合資会社を立て直す力はないと悟り、彦太郎はこの機に盛田家の再建を決心した。そこで慶應義塾大学を2年で中退し、家業の先頭に立った。12代目の骨董をオークション方式で売却し、会社再建の資金を作り、更に問屋を通さず自分たちの手で直接小売店に売る方式を取り入れた。社員の懸命な活動により業績は徐々に回復してきた。この時、名古屋に本店を移し(名古屋市中区中ノ町)、小鈴谷を醸造所とした。 この「自分の会社の製品は、自分の手で売る」という方式は15代目となるべき息子の昭夫にも受け継がれている。


盛田合資会社 名古屋本店
(1945年頃撮影)

盛田合資会社を立て直した彦太郎は昭和8年(1933)14代目久左エ門を継いだ。この頃日本の情勢は大きく変化し、軍国化の一途を辿っている。昭和16年(1941)太平洋戦争に突入し統制経済となり、ありとあらゆるものが配給制となったため盛田の販売網は不必要となった。

長兄の昭夫は海軍の技術将校となり、次男の和昭は海軍航空隊に志願する覚悟を決めていた。だがその後、日本軍は敗色が濃くなり、昭和20年(1945)無条件降伏を受け入れ終戦となった。


昭夫(15代目)東京通信工業株式会社(現ソニー)をバックに
(1948年撮影)

昭和21年(1946)、盛田昭夫は井深大と再会を果たし、東京通信工業を興した。14代目は、長兄の昭夫が盛田家15代当主を継ぐべく期待を持って育てたが、井深大との新会社の説明を聞き、「昭夫がやりたいというのなら、それも良いだろう。しっかりおやりなさい」と承認した。昭夫の夢を理解して精神的な支援だけでなく、名古屋の土地を売り19万円という大金を差し出し、経済的な支援をも行った。

ここに東京通信工業がスタートした。

翌昭和22年(1947)盛田合資会社は14代目当主が会長となり、不在の昭夫を社長とし、早稲田大学を卒業した和昭を専務とした。後に和昭は15代当主代行として家業を護り、命祺のワイン造りの夢を「シャンモリ・ワイン」として実現させた。

常滑市 小鈴谷区長 竹内宗治 記

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