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「盛田昭夫」を語る

キミもがんばれ

2

出会い、そしてニューヨークで(2)

その後、盛田さんはヨーロッパへ、私は中米へと別れて、それぞれの旅を続けました。私は、その後、会社が1955年にNYに子会社を設立、カメラ・双眼鏡など自社の光学製品販売のため再度アメリカに行くことになりました。わざわざここまで来て他社のように輸入代理店をつくり彼らにすべてを委せて全米に売らせるよりも、自ら末端の小売店に販売したほうがよいと考え、いろいろ勉強してアメリカ人に聞いて回り、販売はSales Rep. というCommission Salesmanの会社を通じて売ることにしました。代金の回収は日本のような手形取引の形態がないこの国では、Factorという一種の債券買取り会社と契約することにより解決する方法のあることを学び、これにより小売店に直売する方法を採用することにしました。これは、その後のソニー製品の販売にも役立ちました。

盛田さんも時々NYにお出でになり、あるとき、ソニーも近々NYに会社をつくるため山田志道さんに輸入代理店探しを依頼したので山田さんを助けてほしいと頼まれ、のちにソニーの代理店となったAdolph Grossの会社にも同道しました。

当時は日本のレストランがあまりなかったので、たびたび、わが家に来ていただいて食事をし、いろいろ話し合った折に、いつもソニーに来てほしいと勧誘されていました。創立後日も浅く未だ赤字の会社を社長が放り出して他社に変わることは良心としてできないので、黒字になったらいつでもソニーに変わりましょうと答えておりました。
その後、カメラの売行きも徐々に上向き、プロの目にも止まるようになり、5年目の1960年には黒字に転換しました。ちょうどその頃、本社の方針が変わり、アメリカの由緒ある大カメラ・メーカーとの間で先方のブランドでの大量の独占契約が成約され、そちらでの自社ブランドでの販売は中止することになったと通告され、全く意外な出来事に驚きましたが、すぐに辞表を出して会社を辞めることにしました。

早速電話で盛田さんに連絡したら、彼も喜んでくれてすぐにソニーに来てくれと言われ、1960年6月より出社することになりました。それからラジオの全米販売を展開していきましたが、まずSalesmanにトランジスタ・ラジオの使用価値を徹底的に教育し、DealerのSalesmanにも十分に説得することを要請しました。

1961年頃にはADR株という形で日本株をアメリカで売れることになり、盛田さんが自宅へ電話をしてきて、すぐに三井銀行に行ってくれと言われました。翌朝一番に行きましたが、三井はすでに本社からの指令で物産と東芝の2社を取り扱うことになっているのでダメと言われ、その旨盛田さんに報告すると、これはソニーにとって非常に重要なことだから何としてでもどこかの銀行を探して入れてもらうように交渉してくれと再度の指示。
親銀行の三井がダメならどの銀行も似たようなものだと思い、国内ではそれほど大手ではないが海外に強い戦前の横浜正金に当たってみようと、一面識もなかった東京銀行の横山社長を訪ねて低姿勢で素直にソニーのADR株の取扱いをお願いしました。すると「わかりました。うちで扱いましょう。アメリカで本当に売れる株はソニーとキャノンくらいでしょう」と言われましたので、その先見性に深く敬意を払い、厚く御礼申し上げました。早速盛田さんに電話連絡したところ、大変に喜ばれました。

その後盛田さんもアメリカが忙しくなり、自らNYに駐在されることになりました。ただし、セールスのほうは全て私に任せ、ほとんど口を出されませんでした。しかしよく外出してNYの町を見て回り、また多くの人に会って、ソニーをpromoteすることを考えておられたようでした。5番街にShowroomをつくり日の丸を揚げたり、Times Squareにソニーのネオンサインを出すことも盛田さんの発案でした。

アメリカでは、よく新製品の発表のパーティーを行い、そうした折にも必ず出席されますが、あまりアルコールをお飲みにならないので食事のあとは頼むと言ってサッと帰ってしまわれ、私が最後まで残っていると、"Mr. Morita, Thank you, it was a nice party." とあいさつされ、いつも盛田さんの影武者をやっていました。

ソニーアメリカ時代の盛田さんは、毎月の役員会やその他の用事で、日本に帰られることが非常に多かったのですが、いつかの折に日本に行かれる前日「次回は僕がこちらにいるから、君は交代で日本に帰ってくれ」と言われたので「いいですよ」と応じました。ところが、日本から戻ってこられるとすぐ私の部屋にいらして「すまぬが君はやはりこのまま残ってくれ」と言われる。それはどういうことですかと尋ねると、井深さんが「稲垣君はそのままそちらに置いておきなさい」と言われたからだということでした。私がアメリカに来てから日本へ帰る唯一のチャンスでしたが、以後機会を失って、今日まで46年間アメリカに住むようになりました。

盛田さんはNYのHigh Societyの人々に多くの友達を持つようになり、その縁で、ドイツのフォルクス・ワーゲンのレモンの広告で一躍有名になった広告会社をソニーの広告代理店に起用しました。5インチTummy TVとか9インチのTelefishin'や、4インチのWalkie watchie等という傑作のシリーズ広告を出し、剽軽で人々の笑いを誘い出して話題になり、しかも商品の一番の特徴を最もよく出して、ディーラや一般消費者に大きな関心を喚起して、大成功でした。

盛田さんの1年半余りのNY滞在は、ソニー商品のマーケティングに、株式の上場に、アメリカ人との交友関係の開発に、非常に大きな貢献をなされた時期と思います。

故 稲垣 茂 (2001年 記)

(当時:The Japan American Association of New York Inc. )

※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。

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