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勇気と人間味が強固な友人の輪に
“それでニューヨークに行ったことはあるのですか?” 盛田さんが、畳みかけるように私の答えをさえぎられた。当時私はロスアンゼルスに住んでいたが、“ニューヨークは嫌いです”と言ったからだ。“いえ、ありませんけれど…”と答えると“行ったこともないのに、どうして嫌いなどと言えるのかね?”とずばり。
“まず行ってみなさい”。もうそのとき、私は盛田流マジックにかかっていたのかもしれない。2月の寒いときだったが、一週間のスケジュールを組んでくださったので、初めてニューヨークを訪れることになった。Van Dam St. のソニー・アメリカのオフィスに行って、さっそくコンタクト・リストを勉強してきなさいとのことだった。60年代に、縁あって、盛田家の家庭教師を一年半ぐらいさせていただいたことがあり、アメリカに留学してからも、クリスマスにカードを送ったりしていた。ミセス盛田が推薦してくださったのか、ニューヨークの秘書にならないかと何度か話があった。まだ勉強中だったこと、また、秘書という仕事に特別興味もなかったので、お断りしていたときだった。
Van Damのオフィスは、66年にソニー・アメリカが初めて独立した建物を構えたところで、後年、盛田さんが“よくまあこんな立派なところに、オフィスを持てるようになったなー、と感激したものだよ”と嬉しそうに述懐されておられたビルである。オフィスと言うより倉庫といった感じの二階建てで、当時800人ほどの人が働いていたと思う。日本人の役員さんとの面接があり、前任の秘書にタイプさせられたような記憶があるが、自分の内部にも、新しい仕事に就くという情熱も湧かなかったし、また、その秘書も後進に道を譲るという気持はなかったようで、積極的に教えるというほどでもなかった。
滞在三日目の水曜日には、お断りすることを決めて、東京におられる盛田さんに手紙かTelexを出した。手紙の最後にこう書き添えた。“もし本当に秘書をお探しでしたら、ご自分で面接なさるようお勧めします。” 今思うと、正に赤面の至り、しかし、欲がないということは、こうも素直に発言できるものだろうか。
それから一年以上経っただろうか、1ドル360円、日本から持ってきたドルを使うばかりではもったいないと、学校は夜間に切り替えて、開店したばかりの三井銀行駐在員事務所で働き始めてまもなく、“前任の秘書には辞めてもらったので、ニューヨークに来てほしい、ついては、出張の帰途にLA空港で会いたい”と、盛田さんから連絡があった。当時、やはり留学していた義弟がドライブして空港までついてきてくれたが、盛田ご夫妻にお会いしたのち、興奮して私に言った。“一生に一度、こんな人のそばで働いてみるのも、きっとすばらしい経験だと思うけれど。” 私には辛い決心でもあった。口には出せなかったが、その頃つきあい始めていた主人との交際が終わってしまうかもしれないと思ったからだ。でも折角の人生、よし、二、三年やってみるか、そう思って、ニューヨーク行きを決めた。
その71年は、盛田さんがちょうど本社社長に就任され、故岩間社長が本社専務の肩書きのまま、ソニー・アメリカの社長として赴任された年で、日本のインベージョンと題して、盛田さんがタイム誌の表紙を飾り、8月にはニクソン大統領が為替変動相場制を実施、サンディエゴに海外初の工場建設が決定し、ソニー・アメリカ10年の歴史が、さらに大きく前進を遂げようとするときであった。年毎に忙しさを増し、正に駆け回られる盛田さんのうしろを、ただひたすらフォローし、年月の経過にも気がつかないほどの日々だった。
昨年、NYSE株式上場30周年を祝う行事が行われたが、上場以来、盛田さんはすべてのSecurity Analyst Meetingにご自分で出席され、スピーチをされていた。今思えば、ファックスもコンピュータもない時代、当時の吉井専務の指示のもと、西山 千さんの英語の監修厳しく、何度も何度もスピーチを書き直した。夜中までの作業はいつものことで、スピーチ最終原稿は、さながら貼り紙模様になっていた。80年の初め頃までは、新製品の発表もすべてご自分でなさった。発表の場所を選び、下調べをなさり、何度も何度も、リハーサルを繰り返された。マジックの主人公になられたこともあったが、盛田さんが出られるとなると、マスコミも大きくとりあげ、正にマジックの成功だった。子どもを世に送り出すように情熱をかけて、とりわけWalkmanは試作の頃からアメリカに持って来られて、テニスコートで視聴させて、戻したがらない若者たちの顔に満足気だった。発売前から評判上々で、5倍もの値がついての人気だった。
思えば数々のジョイント・ベンチャーも、盛田さんを中心に始まり、テクトロニクス、CBSなどとの既存の会社に加え、ユニオン・カーバイド、ウィルソン、プルデンシャル、などなどとの新会社が誕生した。一方、長引き続ける訴訟問題、ダンピング、NUE、ベータマックス、ユニタリー・タックス、どれも10年以上も続いた長い戦いのあとの勝利であった。
悲しい出来事もあった。78年には就任したばかりのSteiner社長、ソニー・アメリカ育ての親のRosiny弁護士が亡くなり、83年には岩間社長を失われた。しかし、あとを大賀社長というすばらしい後継者に託され、ますます行動範囲を広げられた。
ソニー以外の仕事も、煩雑多忙を極められた。モルガン銀行国際諮問委員、IBMワールド・トレード、パンアメリカン航空、ロックフェラー大学などの役員、加えて日米賢人会日本代表、日米財界人会議、トライラテラル会議、日本を代表するビジネスマンとして、政・財界活動も広く深く、アメリカの友人たちからの信頼は絶大で、あの日本バッシングの最中でさえ、彼らの仲間以上の尊敬を受けて、日米の架け橋の役を務められた。
いくつ体があっても足りなかっただろう。1日48時間の人生を歩かれた。しかし、従業員と会われるためには、最大の努力で時間をつくられた。製品の説明やセールスの状況を聞かれるときには、必ずしも地位の上の人ではなくて一番よく知っている人と話したいといわれた。入社早々に、君は人間が好きかと聞かれたことがあったが、つねに人に興味を持たれ、特に若い人たちとの時間は大切にされ、また、よく耳を傾けられた。時間が足りないので、私は若い社員の人たちに耳打ちした。
“2分、最初の2分で会長の興味を掴むのが勝負、もし私を呼ばれるブザーが鳴ったら、もうほかのことを考えておられるのよ。” しかし、一旦興味を示されたら、次の予定があるとリマインドしても、もう一寸、もう一寸と、延々とその人を帰されなかった。新しいことは、できる限り、自ら確かめられ、試され、それが次のなにかの土台になった。
ミセス盛田の慧眼にはいつも脱帽で、これから10年のためにと、自ら采配をふるわれてつくられたアパートは、会長活躍のもう一つの舞台として大きな役割を果たした。ニューヨーク近隣はもちろん、ワシントン、かたや西海岸からも集まるアメリカのビジネスマン、政治家、アーティストたち、まだ公にならないプレミーティング、ランチ、ディナー、多くの客人が訪れた。これほどアメリカの習慣と文化の中に溶け込み、理解し、さらに日本人の心を伝えようとされた日本人がほかにあったろうか。
93年にMr. 盛田が病に倒れられたとき、いちばん心配したのはアメリカの友人たちだったのではないか、自分たちを理解し橋渡しをしてくれる人を失う、と。スキー友だちのPerot氏は自家用機で米国中の脳外科の医者をつれて日本に飛ぶから、政府の許可をとってほしいと、何度も早朝から私の家にまで電話をくださるほどだった。Dr. Boseは、毎週容態を問い合わせてこられて、全快された友人の例を話してくださって、家族を激励してくださいといわれた。マエストロMehtaは米国内の至るところから、さらに、ヨーロッパに行っても、行く先々からHow is my friend doing? と電話があった。
病に倒れられる一ヶ月前、10月のアメリカ出張は風邪を押されての強行軍だった。
しかし、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンアントニオ、ダラスと公の会合とスピーチの合間をぬって、すべてのソニー・オフィスを訪ねられ、千人にものぼる従業員と握手をされた。ご自分がアメリカに始めて来た40年前もアメリカから多くのことを学んだが、これからもアメリカの時代、よくアメリカを観察し学びとってほしい。心からの叫びのように聞こえた。
それは日本経済が好況に沸き、傲慢にさえなっていたときだった。盛田さんの言われた通り、その後アメリカは繁栄を謳歌し続け、21世紀を迎えた。自信と情熱をもって、100%以上闊歩された人生、今、時はスピードを増し、世界は距離を縮め、複雑になっているが、盛田さんの勇気ある、そして、なにより人間味溢れる生きざまは、ともに働いた人々、残してくださった友人という宝物とともに、永遠に私の心に生きている。
小野山 弘子(2001年 記)
(当時:ソニー・アメリカ 盛田昭夫秘書)
※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。盛田昭夫に関するエピソードやメッセージがあればお知らせください
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