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故 旧哀傷・盛田昭夫 (第三話)
著者:中村稔
1966年には晴海通りと外濠通りの角にソニービルが竣工した。土地の売収等非常に苦労が多かったと聞いているが、これは田辺恒貞弁護士が手がけた仕事であって、私も私の事務所も売収や建築に関係していない。若干関与した問題の一つは、地下一階の「マキシム・ド・パリ」のミュージシャンとの雇用契約であった。交通費はソニー負担であったが、来日はシベリア鉄道を利用する旨、定められた。格安航空運賃がなかった時代とはいえ、シベリア鉄道を使わなければならないというのは気の毒だと思った。それほどパリにはその種のミュージシャンがあり余っていたのであった。
ついでに思い出したが、マキシム・ド・パリの開店にさいしては、マキシムというフランス料理店が存在し、この料理店から名称禁止の訴訟が提起された。当方は必ず「マキシム・ド・パリ」とフルネームで称すること、先方は「銀座マキシム」と称することを主な条件とし、これに付随的な条件が付されて和解により解決した。ただ「銀座マキシム」はその後数年の間に廃業したようである。ごく近くにパリのマキシムが出店していれば、「銀座マキシム」は贋物じみてみえることになり、むごいことだが寂れて立ち行かなくなったのであろう。
それよりも、ソニービルが竣工したときの盛田さんの喜びようが忘れがたい。たしか竣工祝賀パーティーの前夜、数人が盛田さんを囲んで集まっていたのだが、銀座の目抜きの地に芦原義信さん設計の特色あるビルが建ったことは、ソニーのシンボルが銀座に進出したということであり、盛田さんは満面の笑みをたたえて気炎をあげ、将来の夢を語った。
それだけに、ソニービルに対する愛着もふかかった。借室している一企業がどうしても盛田さんのお気に召さなかった。何とかして追い出したい、というご意向であった。一、二時間もかけて私は盛田さんとご相談し、立退き交渉をするよう依頼されたことがあった。ところが、その翌日か翌々日、成田へ向かう自動車の車中から電話があった。その件は某弁護士に依頼するから、悪しからず了解してほしいということであった。その弁護士は元検事で暴力団とのつながりも噂されている方であった。盛田さんの頭の中には、暴力団を利用しても追い出したいというお気持ちがあった。私はひきさがるしかなかった。これも盛田さんのソニービルに対する愛着に由来することであって、私として盛田さんの気持ちが理解できたので、その弁護士に依頼することは止むを得ないと考えていた。ただし、この弁護士も盛田さんの期待にこたえられたわけではない。
電話といえば、盛田さんから電話をいただいたとき、受話器をとると、盛田ですが、と必ずじかに盛田さんの声が聞こえた。ソニーの社内の方々でも、まず、女性が出て、ただ今X課長に代ります、といって、私を待たせ、やがてX課長が電話口に出て来ることが多い。盛田さんに限ってそういうことはなかった。盛田さんがじかにダイアルなさるわけではあるまいが、秘書の方などを介して私を呼び出しておいてその後に代る、といったことはなかった。じつに気のつく、礼儀正しい方であった。
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盛田さんからロシーニ弁護士の事をお聞きする機会は多かった。たぶんはじめてロシーニ弁護士について話されたときだと思うが、ユダヤ人の弁護士というのはすごいものですよ、相手と交渉して、話がまとまって、外へ出て、数歩歩いたと思ったら、ちょっと待ってくれ、といって相手の事務所にひきかえし、再交渉して、それまでにまとまっていた条件よりももっと有利な条件で話をまとめてきたんです、あの粘りは見習わなければならない、とお聞きした。
ロシーニ弁護士に対する信頼は絶大なものがあった。私見でいえば、ソニーのアメリカにおける商法は、ロシーニ弁護士の指導、教育に負うところが大きかったのではないか。ロシーニ弁護士はソニーのアメリカ法に関する相談相手という以上に、アメリカで商売するにはどうすべきかを教える指導者だったのではないか。後にソニーの副社長・CFOをつとめた伊庭保さんなど、ロシーニ弁護士の一番弟子だったのではないか。私自身、伊庭さんと一緒ではなかったかと思うが、ロシーニ弁護士のお宅に招かれ、奥様手作りのケーキをご馳走になり、雑談したことがある。彼は有能な弁護士以上の存在であった。しかも、じつに魅力的で誠実な方であった。
ソニーが発展し、ロシーニ弁護士が逝去されてから後、ソニーの法務部門も充実するようになった。そのころから、巨大法律事務所を使うようになったのかもしれない。ソニーが弁護士に求めるものは、弁護士の意見ではない、経営者の方針を支持するような法理論を提供することだ、と考える法務部員が見られるようになった。私はそれが弁護士の正しい使い方だとは思わない。ロシーニ弁護士とまでいわないまでも、裁判所、陪審員などを説得できるような、公正で、倫理的な意見を弁護士に求めるべきだと私は考える。盛田さんが亡くなったとき、盛田夫人が私の事務所に訪ねておいでになり、盛田さんの遺言書を預かっていないか、というお訊ねがあった。私は遺言書をお預かりしていなかったけれども、夫人が、ひょっとして私に遺言書を預けているかもしれない、とお感じになる程度に、夫人との間で私が話題になったのかもしれない。そうとすれば、私はつねに私の流儀で貫いて、それなりに信用していただいたのであり、私が暴力団とのつながりをもつことなど、大いに嫌悪することも盛田さんはご存じであった。盛田さんの没後、私の事務所で夫人の法律相談をうけることになったのも、そうした信用によるだろう。
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盛田さんがテニスを始めたのは55歳のときだったという。私はスポーツは健康に有害だと考えている。たとえば、ゴルフでもパッティングのさいの緊張から心臓発作をおこす方も少なくない。もっと卑近な例でいえば、あいにく当日は雨がふって、ゴルフをするような天候でなくても、他の二人、三人の方々に気がねして、雨中、ゴルフを強行して風邪をひき、肺炎にいたる例もある。
盛田さんは勝気な方であった。どこまでも球を拾おうとしてコートを駈け廻る姿を私は想像する。きっと球に対する執着もお強かったにちがいない。そうでなくてもテニスは過激なスポーツである。それだけ面白かったのだろうけれども、そのために、盛田さんはテニスをなさっている最中に脳梗塞か何かそうした発作をおこしたのではないか。テニスは盛田さんの性格を考えると、じつに危険なスポーツであった。そう考えると、盛田さんがテニスを覚えたことが、私には残念でならない。
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前掲『キミもがんばれ 盛田昭夫さんに勇気をいただいた者たち』の寄稿者は、二、三の方が盛田会長などとよんでいるが、その他の80名近い著者は全員「盛田さん」とよんでいる。そういうソニーの風通しの良さを私は愛している。
青土社 ユリイカ 6月号(私が出会った人々 *6)より
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