17
『「NO」と言える日本』について(1989年)
〜民生技術は国境を越える〜
日本は長年にわたって、アメリカとヨーロッパの技術植民地であった。植民地でありながら、そこで習った技術を咀嚼してここまできたんです。トランジスタだってアメリカで発明された。そのライセンスを受けて私たちはラジオをつくりました。技術植民地というのは、ですからいわば特別の学校で学ぶことなのであって、私たちもアメリカというすばらしい学校に入り、授業料をおさめ、さまざまなことを学んで卒業したわけです。
自らを学校として世界中の人間に開放してきたアメリカが、門戸を閉ざしてしまうことはないだろうと信ずるし、そうあってはならないと思います。テクノナショナリズム論者の意に反して、科学にはもともと国境がありません。武器をつくる技術は別にして、民生技術は国境を越えるものです。
技術特許は発明者に利益を与えるものであって、特許があるから他人につかわせないというものではない。どうぞお金を払って発明を利用してくださいよ、というのが特許の精神なんです。つまりナショナリズムがないからこそ特許が存在する。技術とナショナリズムとは、本来矛盾するものなんです。ナショナリズムと密接に結びついた兵器の技術は、特許の申請を行わないでしょう。特許をとれば、その内容が他の国にわかってしまうからです。技術も経済もますます開かれ、ボーダレスになりつつある。テクノナショナリズムは、時代に逆行した考え方であることが、おわかりいただけると思います。
過日、外国の偉い政治家がたくさん集まっているところで話をする機会がありました。そこで申し上げたのは、みなさんは大政治家だが、私は一介の企業人である。政治家は選挙区がいちばん大事だから、選挙区の人たちの意向を無視して世界のことを語れないであろう。
しかし、私には選挙区がない。演説しても票は集まらない。世界中の人たちが喜んでくれる製品をつくり、それを提供することによってのみ、私たちは選ばれたという実感を得ることができる。そして、言葉もカルチャーも違う世界の人々から、私たちの製品は選ばれている。いいかえれば、私の選挙区は限られた地域ではなく、世界中なのだ—自負と自戒を込めてこういったわけです。私はこれかもその気持ちを忘れないでいこうと思っています。
WAC「21世紀へ」より抜粋