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「盛田昭夫」を語る

キミもがんばれ

3

本音にユーモアを添えて

私としては、“盛田さん”とお呼びするのは、たとえ書きものでも大変抵抗を感じておりますが、あえてそうお呼びいたします。私にとっては、生涯“会長”または“Mr. Morita”ですから。

私は欧米勤務が長かったお陰で、盛田さんから直接薫陶を受ける機会に多く恵まれた、ラッキーな者の一人です。その期間は20年間、もちろん毎日ではありませんが、勤務地ご来訪の折には、何日間もお供するなど、さまざまな思い出があります。お蔭で、いろいろな案件について、盛田さんならどのように対処されるだろうか、と今でも考えてしまう癖(?)がついてしまいました。(もっとも、その割に現在しょぼくれているのは私自身の問題です。)

ニューヨークの創立初期、夜8時か9時頃になると“オーイ、メシ食いに行こう”の一声で、514 Broadwayのオフィスを出て、日本食のご馳走にあずかることしばしばでした。タダ飯と、いつもより少し早めに出られるので、当時のわれわれとしては誠に嬉しかったことでした。

“やっぱり日本食は美味いですね、洋食は毎日ですとねえ”とゴマすり気分で申し上げると、“君たち、アメリカに来たら、食事はガソリンと思って食わにぁアカン”が返ってきます。
“今のホテルのベッドが、古くてぶかぶかで寝られません”に対しては、“ホテルに頼んで板をもらいなさい。オレもそんなことがあったよ”となります。

過剰在庫で悩んでいたところ、“車を運転していて、上り坂になったらだれでもアクセルするだろう。下り坂では、ブレーキを踏みどうコントロールするかが問題だ。在庫管理も車の運転だと思いなさい。不良在庫でつぶれる会社はたくさんあるが、在庫不足でつぶれた会社はない。”

米国大手電機メーカーのアドミラルが遂につぶれたときは、“何千万ドルもの借金をつくるために、何十年も営々と働いてきたことになる。われわれは、そんなバカなことはできない。”

このような盛田語録は、皆さんもご承知かもしれませんが、ナマでその場で直接うかがった者として、忘れることができません。

盛田さんが、あの独特な琥珀色の目玉をかっと開いている時は要注意でした。だれかの発言をきっかけとして、なにかをはっきり言いたいときの前兆です。目をつぶってじっとしているときは、つまらないからか、問題分析中の場合です。ニワトリが先かタマゴが先かの議論はいい加減で打ち切って、われわれが、今、なにをどうするのかが重要でした。

ソニーは他が手をつけないもの、ないし、まだ手をつけていないもので勝負していただだけに、昔にさかのぼるほど、いわばニッチ・ビジネスの性格が強かったと思います。そしてニッチ商品の価値を広くユーザーに伝えることは、今よりもっとむずかしい課題であったと思います。盛田さんは、どうやって効率よく製品の価値を伝えることができるのか、つねに腐心されていました。

盛田さんのセールス・トークに、つねにユーモアがあったのも、“価値を伝えるため”の腐心であったと思います。 “ You know Tokyo Tsuushin Kougyou is difficult even for us Japanese to pronounce.” で欧米人をどっと笑わせて、ではなぜSONYの4文字を選んだかの説明に入ると、なにかが伝わっていくのです。ソニーアメリカ躍進の節目にアメリカ広告業界新進かつ屈指のエージェントDDBを使うことができたのも、もちろん盛田さんのお蔭でした。そしてDDBの広告は、ユーモアのセンスなしには語れません。

ソニーアメリカがアメリカで初めてテレビ広告を、しかも全米ネットでやったときの製品は、たしか5インチ・ポータブルTV(501W)だったと思います。DDBの主張で、往事のコメディアンの大御所グラウチョ・マルクスにアドリブでやってもらうことになりました。超多忙のご本人の都合で、期限ぎりぎりハワイで撮ったのはともかくとして、なんと台詞の一部に日本軍の真珠湾攻撃を引用しているのです。“真珠湾攻撃なんてもんじゃない驚きの小型ポータブルTVが上陸しまっせ”といった主旨でしたが、驚いたのは、われわれ日本人駐在員のみならず、ロッシーニ顧問弁護士ほかアメリカ人のソニーアメリカ幹部連中も同様でした。しかし、DDBは、“大丈夫。第一、もうやり直しの機会がない”というのです。まさに侃々諤々の議論のあげく、ロッシーニ氏いわく“ミスター・モリタはマーケティングの神様である。大河内、お前からミスターに決断を仰げ”ということになりました。

東京時間の夜かなり遅くであったと記憶します。あれこれ理論武装して、おそるおそるご自宅にお電話しました。結果はなんと“やってみなさい”の一言で、都合2分ぐらいで終わってしまい、拍子抜けというか、どっと冷や汗が出てきたことだけは、いまでも鮮明に覚えています。

“Never Pearl Harbor”は、日本人としてはタブーであり、たとえ盛田さんでも断念して不思議ではなかったのと思います。すくなくとも“ロッシーニ氏の意見はどうなんだ”ぐらいのご下問はあると思っていました。あの冷や汗はなんだったのか、広告担当者の安堵からだけだったとは思いたくないし、やはり会長さんの常人およばぬ決断力の凄さに打たれたのだと思います。
そしてもう一つ、今この原稿を書いているうちに気がついたのですが、盛田さんのセンス・オブ・ユーモアのお蔭もあったと思うのです。ちなみに、この初めてのテレビ広告は、それなりの話題性で十分目的を果たしてくれたようでした。“真珠湾攻撃”に関連したネガティブ・エフェクトは一切なかったと記憶します。

交渉にあたっては本音をいう、ただしユーモアを添えて。まさに欧米的感覚であり、今でこそ日本でも通用するかと思いますが、当時、どのようにしてこの感覚を身につけられたのか、不思議にさえ感じます。天性の部分が大きかったのでしょうね。

私が盛田さんのお声を最後にうかがったのは、病に倒れられる直前のヨーロッパOB会でした。居合わせられた方々に“お互いこれから長生きしたいねー”とつくづくおっしゃっていた、あのお声は、淋しくも暖かく響いたのです。

大河内 祐(2001年 記)

(当時:アンペックス・ジャパン)

※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。

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