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サンディエゴ工場設立の前後
盛田さんとの想い出は公私にわたり数多くありますが、やはり盛田さんも深く関心を持たれいろいろご指導をいただいたのは、サンディエゴ工場の開設と運営ということになります。
私は、サンディエゴ工場の仕事にたずさわる直前はサンフランシスコ支店長をしておりましたが、1971年のアリゾナで行われたソニーアメリカのコンベンションの最中に、盛田さんから、オランダのフィアネンにヨーロッパの物流センターをつくるのでそこへ転勤するように命じられました。物流センターという仕事には当時販売の仕事をしていたので、相当躊躇したのですが、盛田さんから将来の仕事のためにはヨーロッパを勉強しなさい、と説得され転勤することになりました。ヨーロッパへ引き継ぎのために出張したり転勤の準備中に、米国にテレビ組立工場を設立する話がもち上がり、細かい事情はわからないものの、わずか3週間、ヨーロッパにいたのは出張中の9日間だけで、アメリカに居すわることになりました。
盛田さんは、まず米国工場製でも日本製と同等以上の品質、信頼性を維持することを要求されました。当時話題になっていた米国製自動車の信頼性の悪さが、脆弱な労使の信頼関係にあるということを例にあげられ、健全な従業員との関係を築くことを、幾度となく指摘されました。したがって、第一に指名されたサンディエゴ要員に、人事労務の森本昌義さんが選ばれました。工場の場所の選択にもいろいろアドバイスをいただき、RCA、Zenith、Motorola社などもご紹介いただき、見学に行ったりしました。それだけにとどまらず、当時米国、特に西海岸で現地人の若い人たちにも布教活動をしていた日蓮正宗の活動も人心掌握の参考になるかも、とおっしゃり、渡辺晋・美佐夫妻を紹介してくださって日蓮正宗アメリカの活動を見学することとなり、面喰った思い出もあります。
当時、ニューヨーク、ロスアンジェルス、サンフランシスコの支店でも、倉庫要員は外部組合に所属している人がおりましたので、森本さんとともにセンチュリープラザ・ホテルに滞在中の盛田さんのお部屋で、岩間前社長、Ed Rosiny(ソニーアメリカ弁護士)と組合関係問題で種々議論し、経営者としての盛田さんのタイムリーな決断力ばかりでなく、あらゆるリスクを計算熟慮される面に接することができました。
サンディエゴ工場の設立を検討し始めたとき1ドル=360円の時代で、大崎工場のかたがたに協力していただいて作成した事業計画では、当時設計の商品をベースに計算すると、アメリカ生産のメリットが2〜3年は出るものではありませんでした。どうなるか心配していた経営会議では、市場で生産することが重要、そしてソニー標準の品質、信頼性を達成することという盛田さんの決定と、すぐ一宮工場へ行ってTV生産を勉強しなさいというお言葉で終わりました。
さっそく一宮工場へ実習に行ってまいりましたが、その一宮工場滞在中にニクソン大統領の為替変動制への移行の発表があり、盛田さんの持っておられる情報量の多さと先見性に感銘を受けたことが、昨日の出来事のように思い出されます。
サンディエゴ工場の開設後も、しばしば工場を訪問してくださいまして、従業員、工場の幹部に、いろいろとソニーの商品に対する思い、米国市場におけるサンディエゴ工場への期待、従業員に対する熱い思いを、毎回のスピーチの中で述べてくださり、従業員からもMr. モリタと慕われ、工場運営において中核となってくださったことは感謝にたえません。
工場立地の選定時は、taxなど調査不十分の所が多分にあり、のちに加州のユニタリー・タックスが大問題となり、盛田さんはじめ、森本さん、亡くなったクリス和田さんが、ソニーおよび日本企業のために、解決に多大の貢献をされました。ご承知のかたも多いでしょう。
盛田さんはウォークマンをプロデュースされた方として有名で、いつも新しい商品、新しいライフ・スタイルに感度が極めて高く、興味を持たれる対象も極めて広範囲なのは、よく知られているところです。
サンフランシスコ支店長時代には、突然電話をいただき、サンフランシスコに立ち食いのハンバーガー屋ができるらしいけど、探して報告するようにとのこと。今のマクドナルドのようなファースト・フードの1号店のことでした。また、サンディエゴ時代にも工場が稼働してすぐの頃だったと思いますが、やはりお電話があり、ゴルフクラブのシャフトでカーボンのものができたらしい、ブランドはALDILAということで、これまた、見てきて報告するようにということがありました。その後のFast Food Chainの成長、カーボン・シャフトの普及を見るにつけ、レポートの内容に問題はなかったのかと反省しています。
海外系の仕事が多かったこともあり、親しく盛田さんから公私にわたりご指導を受ける機会に恵まれていたことは幸せでした。
われわれは盛田さんを失ったのですが、いつまでも盛田さんとともに、という気持であります。
小寺 淳一(2001年 記)
(当時:ソニーマーケテイング株式会社
兼 株式会社ソニー・ピクチャーズエンタテインメント・ジャパン)
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