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「盛田昭夫」を語る

キミもがんばれ

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ホワイトハウスのダンス・パーティー

1986年秋、レーガン大統領主催の『ホワイトハウスのダンス・パーティー』が開催されました。各界を代表する著名な招待者の中に、盛田さんご夫妻と商務長官のマルコム・ボールドリッジご夫妻が含まれていました。
80年代の中頃は、日米経済摩擦の真っ只中、自動車・電気・鉄鋼・工作機械といった多くの製造業で、米国が日本に大きく水を開けられていた時代です。ジャパン・バッシングが盛んな頃で、ちょうどその頃、東芝機械のココム違反が発覚し、東芝製のラジカセをハンマーで叩き壊す下院議員たちの映像が、繰り返しテレビで放映されたりしていました。一歩間違えると、米国が保護貿易主義に走りかねない時期です。
しかし、ボールドリッジ商務長官は米国製造業の復活には、製造業として力をつける以外にないという信念のもと、保護主義の主張を押さえ、品質管理の重要性などを一貫して説いていました。この考えは、盛田さんがつねに主張されていたものでもあります。そのため、この日米のリーダー二人は、お互いの立場を超え、強い信頼と親交を築きながら、自由貿易の拡大という方向に日米の関係各界を導くべく、協力し合っていました。

その頃、ソニーは米国連邦政府への情報機器入札が、山場にさしかかっており、この入札プロジェクトのソニーアメリカ側の担当者であった私は、プロジェクトの成功を目指して緊張の日々を送っていました。連邦政府が購入する電子機器の総額は、世界の家電市場全体に匹敵する程の大きなものです。
そのため、80年代に入り、ソニーは光ディスク関連の優れた技術をベースに、何度か大規模な連邦政府入札を試みました。しかしながら、現地メーカーとの競争に加え、政府入札の複雑な手続きの壁に阻まれ、敗北の連続でした。最初の挑戦はレーザー・ディスクを利用した教育訓練システム。次は商務省の管轄下にある特許商標庁(PTO:Patent and Trademark Office)のAPS(Automatic Patent Search)という特許検索のオンライン・ネットワーク化を促進する大プロジェクト。ソニーは検索用Unixワークステーションで、SIOSというシステムを提案しましたが、これも創業間もないサインマイクロ社に敗退。
そして、次に取り組んだのが、同じ特許商標庁(PTO)・APSプロジェクトの大容量記憶装置の入札でした。これは、主にハードの勝負であり、ソニーの記憶装置と記録メディアがPTOのRequirementにマッチしていたこともあり、絶対に負けられない入札でした。しかもこの大プロジェクトで採用が決まれば、ソニー方式が今後の連邦政府の光ディスク(WORM型:Write Once Read Manyという一回だけ書き込みが可能なタイプ)のDe Facto Standardになるとの読みもあり、すばらしい提案(Proposal)と思い切った価格設定で臨んだわけです。

ところがここで思わぬ強敵が現れます。スリーエムです。スリーエムは当時ソニー同様光ディスクに力を入れており、このPTOプロジェクトを前提に、本拠のミネソタ州に新工場を稼働させたばかりです。 性能・価格ではソニーに負けると見たスリーエムは、政治ルートを活用します。当時隣のウイスコンシン州選出の上院議員でWiliam Proxmireという有名な議員がいました。長くSenate Banking Committeeの委員長を務めた有力議員です。スリーエムは、このProxmire上院議員を中心に、国産品を採用すべきだという圧力を、議会とPTOの上部組織である商務省にかけてきたのです。

そこで、クリス・和田氏に相談に行ったところ、「面白いから正々堂々と勝負しょう。盛田さんも賛成してくれるはずだ」ということになり、ついにロビー合戦がスタートします。幸いわれわれの主張が正論であり、形勢は有利。しかし商務省の最終結論が持ち越しのまま、何ヶ月も時間が過ぎていきます。このまま行けば、PTOプロジェクト全体の進捗にも影響が憂慮され始めた頃、クリス・和田氏独自のルートから、「いよいよ最終決定の段階だ」との情報が入ってきました。
『ホワイトハウスのダンス・パーティー』は全く偶然にも、まさにこの時期に開催されたわけです。出席予定の盛田さんからは、「ちょうど、ボールドリッジ商務長官に会うから、まかしておいてくれ」と連絡があり、クリス・和田氏からは、「抜群のタイミングだ。うまく行くぞ、河上君」という力強いお言葉があり、パーティーの翌日には、「盛田さんがホワイトハウスでボールドリッジ長官夫人とダンス」という速報を受けました。

そして、待ちに待った「PTO:ソニー採用を決定」の吉報が、その数日後、商務省から正式発表されました。プロジェクトの最後の山場にこの『ホワイトハウスのダンス・パーティー』が、絶妙のタイミングで開催されたことに、今も強い不思議を感じています。しかも、ボールドリッジ長官はこのパーティーの一週間後、休暇中の落馬事故で帰らぬ人となりました。その後、彼の名前は、品質管理に顕著な業績のあった企業を毎年表彰する、マルコム・ボールドリッジQuality Achievement Awardとして、今も長く語り継がれています。

盛田さんも、クリス・和田氏も、ボールドリッジ元長官も鬼籍に入ってしまった今、『ホワイトハウスのダンス・パーティー』で盛田さんがボールドリッジ元長官にどういうメッセージを伝えたか、だれにも分かりません。きっと、盛田さん特有のウイットとセンスと抜群のタイミングをもって、ボールドリッジ長間を『説得』されたことは、間違いないところでしょう。
『ホワイトハウスのダンス・パーティー』の日程がホンの少し早くても、遅くても、入札の結末は変わっていたかもしれません。入札成功のニュースは、当時の日米経済摩擦の状況を配慮し、関係者以外には発表を控えることにしました。

ソニーアメリカと盛田さんの秘話の一つとして、私が関与した古い話を紹介させていただきました。ちなみに私は、1990年に、15年近く勤めたソニーを中途退社しました。
しかし、盛田さんがお元気で活躍されていた時代のソニーでの経験は、私にとって、今も大きな指針になっています。そして、盛田さんの何事にも前向きで果敢な姿勢、ソニーの自由闊達な企業風土をできる限り取り入れるように心がけています。
盛田さん、どうもありがとうございました。

河上 正三(2001年 記)

(当時:日本ガイダント株式会社)

※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。

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