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「盛田昭夫」を語る

キミもがんばれ

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ことばでは表せない感謝

社員を思いやる盛田さんについては、多くのかたが語っています。盛田さんを偲びながら、私の思い出を。

<慰問品 盛田の味噌・醤油>

1962年秋、アイルランドのシャノン空港保税地区にあるソニー・リミティッド(シャノン)に出張した。駐在の日本人スタッフ3〜4名は、空港から10数キロ北に位置するアイルランド3番目の町リメリック(人口6万人)に住んでいた。
われわれ日本人にとって、食料事情は悪く、土地でとれるジャガイモなどは美味しいが、それ以外は果物と同様、ほとんどのものは輸入品で、鮮度など期待できない。肉類もあまりよくない。魚類は、新鮮ではあるが種類がすこぶる限られる。そのような環境で、唯一楽しみな食料品は味噌と醤油が日本から送られてくることだった。銘柄は、盛田株式会社製のもの。米、味噌、醤油は日本人の必需品。米はイタリア産が当地で調達出来る。盛田さんは、タイムリーに、味噌、醤油などを、この僻地に送ってくださっていた。
アイルランドはサファリン(樺太)とほぼ同緯度にあり、その厳しい気候・環境に駐在員が堪えてこられたのは、この慰問品のお蔭だった。いまでも、ありがたかったと思う。今の駐在員諸氏には考えられない話かと思う。

<留守家族へのメッセージ>

シャノン工場に駐在していたとき(1963〜66)、シャノンは遠く日本から離れ、めったに土地を訪ねる社員もなく、情報も疎遠のためか、本社から、駐在員の最近の状況を留守家族にお知らせしたいので、テープに金曜を録音して送るように、と連絡があった。

当時のテープレコーダーはまだオープン・リールで、また、国際電話は、アイルランドからイギリスかアメリカの交換台に申込み、早くつながった交換台を経由して、やっと話ができる状況で、時間もかかるし料金も高く、私用で電話することなど及びもつかない時代のこと。駐在員が集まり、仕事のこと、食事・生活環境・娯楽など、こもごも、みんなで語って7号テープに吹き込み東京に送った。

本社では、全員の留守家族を呼んで、このテープを聞かせた。後日、家族からの手紙でそのときの様子を知り、駐在社員・留守家族への配慮をありがたく思ったものである。

<盛田夫人のお雑煮>

1961年、ソニー(株)香港支店に勤務のとき、駐在員4名は、アパートのワンフロア4部屋を借り、共同生活をしていた。住み込みの中国人夫婦が、炊事・洗濯・料理をしてくれていた。さいわい、料理は美味しかった。香港に来られる出張者は、役員もふくめて、このスタッフハウスにご招待した。

1962年の正月には、盛田ご夫妻はスタッフハウスにお見えになり、いつもお世話になりますのでと中国風料理に代わって、日本からお持ちになった三ツ葉、柚子、お餅などを用いた、奥さま手づくりのすばらしいお雑煮をご馳走になった。忘れられない、温かく楽しいお正月となったのである。もう40年近く前のことになる。

<励まされてうれしかった一幕>

1961年4月〜62年4月が香港駐在であったが、初めての海外赴任で、盛田さんのところへ面接を兼ねてご挨拶にうかがった。
「キミは英語ができるかね」とご下問があり「食事をしたり、迷子にならないくらいは大丈夫です」と答えした。盛田さんは口を大きくあけて笑い、「それぐらいできれば大丈夫だ。元気で行ってきたまえ」だった。若い社員に、いらぬプレッシャーをかけず、安心して赴任させる心づかいだったと今にして思う。

<両面作戦にさらされる>

1963年7月〜66年3月 シャノン駐在。前年の出張報告で「シャノン工場は、不良仕掛品、不良製品在庫過多で、かなり危機的状態である」と上申していた。シャノン問題がさらに検討された結果、生産は続ける、しかし、一方で撤退も視野に入れて、という相反する命題がくだされた。

赴任にあたって、盛田さんから「両面作戦を考えながら、仕事にあたるように」「ビジネスでも戦争でもそうだが、ただ勢いに乗ってガムシャラに進むのではなく、収めどころ、退きどころを考えながら前進せよ」と言われた。万感のお言葉だったと思う。

本社から約束の助っ人が着任して、不良在庫の改修・新装整備がなされ、完売。1966年春、Wind upした。

<キューバ危機、盛田さんの指示>

1962年7月、ソニーアメリカの内部監査と日本人社員の生活状況調査のため、ニューヨークにいた。仕事もほぼ終わり、10月早々に、次の目的地シャノンに発つ準備をしていた。

10月1日、ソニーはニューヨークの五番街にショールームを開設。日の丸と星条旗を並べて掲げ、ソニー社員は、いやソニー以外の他社駐在員も、日本人として、日本企業の快挙を、喜び合っていた。

最近、キューバ危機を描いた映画“13 Days”を見て、米ソのツバぜりあいに唖然とした。そのころの時代背景。1959年キューバにカストロ社会主義革命政権が成立。アメリカは国交を断絶、カストロ政権転覆に失敗。アメリカの侵略を恐れたカストロ政権はソ連に接近。フルシチョフ首相は、キューバに中距離ミサイル配置を計画(射程距離2100km、広島型原爆の60倍の1メガトンの殺傷能力)していた。1962年10月16日、ケネディ大統領はアメリカ軍偵察機がキューバに建設中のソ連のミサイル基地発見の報告を受ける。

ソ連のキューバ支援の攻撃兵器の海上輸送に対して、即時侵略・空爆・海上封鎖・外交交渉の選択肢から、ケネディ大統領は、海上封鎖(quarantine)を、10月22日、世界に発表した。

ニューヨークから、私は、10月初旬、アイルランド入りした。キューバ危機をここで知った。東西陣営は、弟三次大戦・核戦争が目前に迫った状況に緊張していた。一触即発のときに、盛田さんから緊急電話を受け取った。USドルを手元に置き、万一のときはヨーロッパの安全な国に飛ぶように、という指示である。アイルランドは、ヨーロッパで一番西にあり、アメリカ、キューバにも近い位置にある。大西洋をキューバに向かうソ連艦船の通り道でもある。盛田さんは、こうしたことを瞬時に、元海軍士官として世界戦略的に判断されて、われわれへのご指示をされたのであろう。
こうしたご配慮をいただいて、いまだに無事生活をさせてもらっている、とつくづく思うのである。

<マキシムへの期待>

66年春、アイルランドから帰国。4月29日、ソニービルが銀座にオープン。マキシムは11月に開店。成田さん(当時の経理部長)から「盛田さんが君を呼んでいる」と伝えられ、おうかがいした。
「マキシムをソニービルに開店する」「ソニーはレストラン・ビジネスに経験もなくノウハウもない。営業の基本はその道の経験者に任せる。ソニーが出資するので運営を管理する人を送りたい」「レストラン・ビジネスは、面白い興味ある最先端の営業の仕事だ」と、いつものように人を魅きつけ、その気にさせてしまう話術だ。「ただし、このマキシムに関しては、業種的に、ソニー本業のエレクトロニクスとは無関係だから、決して業務命令ではない。1週間の期間をあげるから、よく考えて返事をするように」とおっしゃる。
通常では考えられないことだ。おそらく。盛田さんの胸中には、仁科に出来るかな、気の進まないものにやらせて得策がどうか、果たして成功するのだろうか、いろいろなことが去来したのではないだろうか。

私は、返事は早いほうがよいと思い、翌朝Yesのご返事をした。そのときの盛田さんの愁眉を開いたといったご様子は、まるで昨日のことのように思い出される。今にして思うと、レストランの業種は飲食だが盛田さんにとっては、モノをつくる精神の延長だったのかもしれない。とにかく、マキシムのようなレストランは日本で初めて。開店当初、マキシムは時期尚早で、99%成り立たないとした週刊誌があったほどである。

<楽しみながら仕事をされる盛田さん>

ご自宅やマキシムをはじめ、内外で食事会を催されたことは、数知れないであろう。人選を見定めてメニューを決めるわけであるが、日本人だけの集まりであっても、菜食主義者、また、牛はダメ、鶏はダメ、スープ・ソースの材料もこれはダメ、と、いろいろな方がいらっしゃる。事前に調べてみんなが楽しく食事ができるよう腐心する、そこに並々ならぬご苦労があったと拝察する。外国人と、また、海外での場合、宗教などの制約があるので、なおさらだったであろう。

メニューが一段落すると、次はテーブル・プランの作成である。お客さまをカップルでお招きするときは、何倍かのご苦労となるはずだ。盛田ご夫妻が、考えられる案を次々に提案されながら、お客さまの来られる寸前まで、ああでもない・こうでもないとプランを練っておられるお姿は、苦しみながらパズルを解くように、眼を輝かせておられ、印象的であった。お客さまに、料理だけでなく、十分に会話を楽しんでいただこうとの心づかいからである。

盛田さんは、クリエイターであることはもとより、政治・経済・外交の達人であったとともに、偉大なエンタテイナーであり、演出家であったと思う。

<喜びを分かち合う盛田さん>

1970年代、盛田さんのお誕生日をご家族でお祝いなさるディナー会があり、その席にマキシムのケーキをお届けしていたことがある。ケーキと一緒にバースデイ・カードをおつけしていた。トリックがあり、簡単にはあけられないカードである。

お食事のあと、盛田さんからお電話があり、「ケーキありがとう。トリックを解き、カードを読んだよ」と屈託のない子どもの喜ぶような笑顔が、受話器の向こう側に見えるようであった。率直に喜びを伝えてくださるお心づかいに、すべてが報われる思いがしたものである。

 

楽しかったこと、うれしかったこと、数えきれない思い出があります。一つ一つに、共に感動し喜んでくださった盛田さんが偲ばれます。ご縁のありましたことは、私どものかけがえのない宝であり、心から感謝しております。

仁科 満(2001年 記)

※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。

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