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「盛田昭夫」を語る

キミもがんばれ

12

英語も教わってハピネス追求

人は、生きている間に実に多くの人との出会いがある。そのほとんどの人とは、兼好法師のいう旅人との出会いである。ただ行き交うだけである。しかし、なかには、自分の人生に足跡となるような影響を与えてくれる人々との出会いもある。盛田さんとの出会いも、そんな数少ない出会いの一つであった。

盛田さんはいつも若かった。

盛田さんを最初に知ったのは、大学3年生のときである。そろそろ就職を本気で考え始めたころだったと思うが、月刊誌の文芸春秋に、盛田さんが自宅のプールで泳いでいる姿が紹介されていた。そのソニーの経営者の雄姿が目に飛び込んできた瞬間、私の就職先は決まってしまった。ソニー入社後も、盛田さんの雄姿は、ときどき社内報や雑誌などで拝見した。スキーや、スキューバダイビング、あるいはウィンド・サーフィンに挑戦する姿である。

盛田さんは、ネアカであれ、という言葉とともに、自分の元気ハツラツな姿を見せることにより、社員を鼓舞し、白いスキー・ジャケットに身を包み、ストックをふり上げている盛田さんの姿には、感動すらしたものである。60歳を過ぎ、さらに年齢を重ねても、次々に新しいスポーツへ挑戦する気力と若さには、理屈抜きで魅了された。私もこれからの人生にかくあらねばとの思いを強くしている次第である。

盛田さんは勉強家であった。

たしか1977年だったと記憶しているが、私はソニーアメリカに赴任していた。そのさい、ワシントンDCで開催された日米財界人会議に出席する盛田さんに、日間程アテンドする機会に恵まれた。当時まだ入社3年ほどの若造だったので、盛田さんのカバン持ちの仕事がいかに大変かということを全く知らずに、安藤さん(現社長)などにのせられてワシントンへ行った。

ワシントン到着後、盛田さんをダレス空港に出迎え、ホテルへ着くと、さっそく試練が待っていた。当時は日米間でカラーテレビのダンピング問題があり、日米財界人会議でも課題の一つに取り上げられていた。私は、当時、プロキュアメントの仕事をしていたので、ダンピング問題にはある程度馴染みがあった。加えて、事前に勉強もしていたので、アテンドは楽勝と思っていた。ところが、である。盛田さんから出たその時の宿題は、核融合に関する資料の要約を、明朝までに作成せよというものであった。

手渡された資料は全て英文で、ワシントンポストなどの新聞の切り抜きをはじめ、数十ページの大部であった。とうてい、2〜時間で終わる仕事ではなかった。おまけに核融合についての知識は皆無だったので、ほんとうに途方にくれたものである。四苦八苦しつつも。その晩徹夜してなんとか要約を仕上げ、明け方、盛田さんの部屋にドアから忍び込ませた。その朝、なぜ核融合かという謎が解けた。

アメリカ側のゲスト・スピーカーが、当時エネルギー庁長官のアーサー・シュレジンジャーだったのである。盛田さんは予習をしていたのであった。ついでながら、のちの1991年、盛田さんから天然ガスの市場調査を命じられた。歴史はくり返す、である。そう盛田さんはいつも勉強していたのである。

盛田さんは好奇心旺盛であった。

同じくワシントンDCでのことである。日米財界人会議が終了し、夕食の時間まで間があった。盛田さんが、スミソニアン博物館に行きたいというのでお供した。スミソニアンでのお目当ては、アポロが持ち帰った月の石ではなく、IMAXシアターであった。そのとき観たのは、気球にのって空中散歩を楽しむもので、FLYというタイトルの映像であった。視野に収まりきらない画面の大きさと、画像の鮮明さからくる仮想現実の体験は強烈な記憶として残っている。今でこそ、カナダのIMAX社が開発したこの超大画面の二次元バーチャル・リアリティの迫力は、多くの人が楽しむようになったが、盛田さんの好奇心は、すでに1970年代の後半にこれを体験していたのである。しかもそれをビジネスとする構想がすでにあったのである。「好奇心と日本人」(鶴見和子著)の典型をそこに見た。

盛田さんは英語の天才であった。

Walkmanという言葉が正式な英語としてブリタニカに載った。Walkmanは盛田さんの造語である。この事実だけでも、盛田さんの英語表現能力の素晴しさの証明になるであろうが、このほかにも、盛田さんの英語のすごさを示すエピソードを、私自身、幾度となく体験したことがある。

1981年ごろのことである。IRの一環として。アメリカからモルガン・スタンレーをはじめ投資銀行の人々を日本に呼び、ソニーを見学してもらったことがある。当時、私は厚木工場で放送機器のマーケティングの仕事をしていたが、盛田さんがインベスターを連れて厚木工場に来られるというので、案内役のお鉢が回ってきた。一行は日産の座間工場を見学したのち、厚木に向かった。

座間−厚木間の観光バスの車中、私は、これから案内する厚木工場の説明をしていた。もちろん英語である。ソニーの株価を上げるのが目的であることは推測していたので、そのために情報機器、特に放送機器の収益性の高さと、圧倒的なマーケットシェアの話などを中心に説明した。そして、ことのついでに、余った有給休暇を会社が買い上げるというシステムにも言及した。私がくどくど英語で説明していると、盛田さん突然割って入り、要するに、ソニーの社員は、自分の休暇を会社に売ることができるのだと説明した。このときのYou can sell your paid holidays. という表現は実に見事であった。

盛田さんから英語を教わったこともある。先ほどのワシントンDCのことであるが、ディナーの予約を頼まれ、さっそくレストランに電話を入れた。5人の席の予約である。私は、I would like to make a reservation for five people. といって予約した。電話を切るや否や、「茂木君、あんたね、reserve A table For fiveと言わなきゃダメだよ」という、あの独特なだみ声が聞こえてきた。ささいなことであるが、印象深く覚えている。

盛田さんの英語のスピーチを聞くたびに、ほんとうに分かりやすい表現での話に感心した。もちろん、日本語でのスピーチにはさらに研ぎ澄まされた表現が随所に現れ、創造されたキーワードも数多くあった。米沢さんは、これを話題の引き出しと呼んでいたが、盛田さんの頭には無数の話題が詰まっており、その一つ一つが的確な短い表現で記憶されていたのである。私はこれをMPEG圧縮と呼んでいた。(注:MPEGとは、本来、Motion Picture Expert Groupのことであるが、ここでは、Morita’s Special Expression Grammarのことである。)

盛田さんはハッピー人間であった。

私は1974年、ソニーへ入社した。入社式での盛田さんのスピーチは、ソニーに関係するすべての人がハッピーでなければならないというものであった。ソニー製品を買う消費者、ソニーの株主、ソニーが企業活動を行う自治体、そして、もちろんソニー社員、これらすべてのステークホルダーがハッピーでなければならならいという経営哲学であった。高品質、高株価・高配当、良き企業市民である。そして、新入社員に対しては、ソニーで働いている間は、つねにハッピーであれ、と訓示していた。ソニーで働くことがハッピーでなかったらすぐにソニーを去れとのメッセージであった。毎年このような見事なメッセージを新入社員に送っていた。

その20年後、盛田さんからハッピーネス(幸せ)の定義を直接聞けるという幸運に恵まれた。文芸春秋に掲載され盛田論文として有名になったあの論文作成作業の一環で盛田さんと論議していた。坂口君、佐々木君、中村君、大野君など、論文プロジェクトの仲間と一緒であった。ひょっとしたことから、幸せってなんだろう、という議論になった。のちに、盛田論文の中心となる6項目提案の下地となる議論であった。一同は、盛田さんにとってなにが幸せなのかを固唾を飲んで待っていた。「幸せとは、他人のことを羨まないこと」というのが、盛田さんの口から出てきた言葉であった。

もう一つ、適材適所という言葉も盛田さんにいわせると、ハッピーでないと感じたら、ハッピーになれるような職場を自分自身で見つけて、主体的に動くという、能動的な意味である。決して、自分の上司かだれかが、自分に合った職場を与えてくれるという受身的な意味ではないのである。JR(国鉄ではなくJob Rotationの意味)であたり前に行われていたこともあり、この適材適所ほど誤解されている経営用語はないのではあるまいか。自分がやりたい仕事が適所であり、その仕事を面白くやり、さらに技能に磨きをかけ、より高度な仕事にチャレンジするということで、人はハッピーになるのである。この盛田さんからの教えは、私にとって大変貴重なものである。

盛田さんはプロフェッサーだった。

盛田さんから怒られこそすれ、褒められた想い出は一つもありません。盛田昭夫という偉大な経営者から、多くのことで身近で学ばせていただいたことだけでも、ソニーで働いて本当によかったと思っております。私にとって、ソニーはビジネス・スクールでした。盛田さんはプロフェッサーでした。給料を貰いながら勉強させていただき、本当にハッピーでした。Be NEAKA, Be young, Be persuasive, Be visionary, Be happy! とあのだみ声で口を尖らせて熱弁する、プロフェッサー盛田の姿が、折に触れ瞼に浮かびます。

私は、1999年1月末にソニーを退職し、元ソニーの仲間とシリコンバレーに会社を興しました。UKOMという社名で、Broadband時代のキーデバイスになるであろうフロントエンド・デバイスを作る半導体ファブレス会社です。盛田さんは、企業経営に最も大切なものはVisionだといっていました。UKOMでもVisionを最も大切にしています。ソニーには約25年在籍しました。ソニーを辞めた理由を聞かれるといつも、金儲けのためと答えています。もちろん、ソニーを辞めれば金儲けができるという保証など全くありません。案外、入社の時の、盛田さんのハッピーでなくなったらソニーを去って、自分の適所を探して、面白く仕事をして、ハッピーになれ、という思想が身についていたからかもしれません。

最後になりましたが、ソニー退職後、何かソニーの想い出を一つでも書き残したいと思っておりました。今回、その機会を与えていただきました。関係者の皆さまに深く感謝いたします。
盛田さんのご冥福を祈りつつ。

茂木 孝一(2001年 記)

(当時:UKOM Inc.)

※『キミもがんばれ』は、2001年2月、ソニー北米関係有志によって、盛田氏の思い出をまとめた文集(非売品)です。

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