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「盛田昭夫」を語る

エピソード

3

「自由社会研究会」宮沢喜一氏と昭夫

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去る6月28日、宮沢喜一元総理が逝去されました。
翌朝ご自宅に弔問に伺った。
すっかり痩せられて一回りも二回りも小さくなられた宮沢さん、総ての仕事を成し遂げられた、穏やかな安らかなお顔にお別れしての帰り道、私は自由社会研究会を思い出していた。

1977年、今から30年前のこと、昭夫が理事長となり発足したこの研究会は当時の自民党の結束を願って政界、財界、文化人の次の世代のリーダーとなる、派閥を超えて世界の日本を考える為の真面目な集まりであった。派閥を超え、各省を超え、学閥を超え、企業を結び世界に対して日本の国力を結集して事に当る、それが昭夫がかねがね理想としていたことであることを私は知っていた。

「自分でなければ出来ないこと、それをやり遂げる為にこれからの人生をかけるのだ。それには君にも家族にも迷惑を懸けることになるだろうが、協力をして欲しい。」 1977年8月17日、この自由社会研究会はスタートしたのだった。

毎月1回朝食会が開かれ、各界の忙しい方々が一同に介して真剣に国益について話し合ったと聞いている。このレポートは時の内閣、財界の長に伝えられたが、報道関係には流さないという暗黙の約束がなされていたと聞いている。

時には、昭夫と親交のある世界の要人の来日に合わせて開かれ、メンバーはこの特別ゲストから他国の新しい情報を聞き出し話し合ったと聞いている。

その中の一人、ドクター・ヘンリー・キッシンジャーは私に今でも懐かしんで当時の話をされる。

ある時昭夫が「ヘンリーは昭夫の会はお礼は要らないよ。他社がたっぷりお礼を払ってくれるからね。それより何時でも呼んでくれ。この会に参加するのは楽しみだと言っていた」と笑って話していた。

またある時、故意か偶然か、明日選挙と言うときに会が開かれたが出席率は下がらずむしろ全員出席されたと後で聞かされた。

この会のメンバーから竹下、海部、羽田、橋本、小渕、森、そして宮沢さんが総理になられた。昭夫はスターティングメンバーの安倍晋太郎、中川一郎さんも総理になって欲しい方々だったが、不幸にして総理の座に座られることなく世を去られたことを心から残念に思っていた。

1993年、昭夫が病に倒れ復職が難しいと思った私は、宮沢さんをオフィスにお訪ねしてこの会の解散をお願いした。このときの宮沢さんの答えは「この様な会は二度と出来ない。このまま続けさせて欲しい」との事だった。「どうぞお好きな様になさって下さい。」と申し上げて事務所を失礼した。

だが今もってこの会の「自由社会研究会」通称「自由研」の名前は消えず、現在は豊田章一郎さんが理事長となって30年たった今も続いていると伺った。当時のメンバーは半数以上亡くなられ、新しく各界のニューリーダーが加わられたと伺ったが、私は今のメンバーを知らない。

今の私には、昭夫の理想としていた強い日本は無く、ばらばらになっていく日本を見る様は寂しい事だが、私に出来ることは必ず選挙当日に投票所に出向き、自分の考えで貴重な一票を投じる事。それが国民としての義務であり、世間にものが言える貴重な一票でもあるからだ。

宮沢さんのご葬儀の数日後、昭夫のアルバムの中から見つけたのがこの自由社会研究会の折のスナップである。

あの頃は二人の前途には光り輝く世界があったのだが・・・

2007年 7月5日 盛田良子 記

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