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「盛田昭夫」を語る

想い出

16

盛田昭夫:スイスから日本へ (No.3)
著者:グレゴリー・グランツマン氏

「スイスから世界へ」

  スイスの金融制度は引き続き重要な資産となった。ヨーロッパ中の組織からの現金の流出入にはかなりの調整が必要だった。当時、ヨーロッパに通貨統合は存在せず、スイス・フランのほかにリラ、ペセタ、ポンド、フランス・フランとドイツ・マルクの換算が大量に必要だった。ヨーロッパ中の分散作業による非効率性を防ぐためにスピードとスケールメリットを得るよう金融取引の統一とリ・インボイシングが設置された。当時在任の支配人、河相董は支店がどんどん独立化していく当時の変化を覚えている。SOSAにとってこれはマーケティングの活動から離れていく動きで、1981年以降ヨーロッパの金融本部として再設立していった。

 ヨーロッパ経済は大盛況だった。それまでアメリカのマーケットをより注目して関与していた盛田もヨーロッパがビジネスにとって重要になってくるに従ってヨーロッパに目を向けるようになった。1982年に初めて盛田はダボスで行われたヨーロッパ経営者シンポジウムに参加した。この議会は後に世界経済協フォーラム(WEF)と改名された。支配人の河相董は代表取締役を空港まで迎えに行き、彼と彼の妻、良子が車でダボスまで行くのを見送ったことを記憶している。深い雪の中、河相はVIPゲストが無事にダボスについたか心配した。

 1989年WEFに参加する機会に盛田はフリムズでの会社のスキー遠足に同行した。いまだ現役のAlbert Jollerは盛田のことを社員一人一人に興味をもってくれる親しみやすい人という印象を受けたという。「どの役職の社員とも関係を築くことに熱心だった。」この個人的な結びつきは、特にヨーロッパで日本のブランドを代表することが難しかった初期、社員のやる気につながった。地元のスタッフはスイスの田舎に支店がありながら、スイスに滞在する日本人駐在員を通して東京との強い繋がりを築いた。盛田はこの打ち解けた関係が強いソニー、そして強い日本に大切だと評価していた。疲れを知らない起業家は先のスキー遠足のような絆を深める機会をとても大切にしていた。彼は彼の妻と共にディナーパーティーに参加し、フォンデュ、エーグルの白ワインやJollerと社員によるヨーデルの生演奏を楽しんだ。(No.4 に続く)

 「スイス・日本国交樹立150周年記念年鑑」より抜粋 

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