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「盛田昭夫」を語る

想い出

18

故 旧哀傷・盛田昭夫 (第一話)
著者:中村稔

詩人であり、弁護士でもある中村稔氏が雑誌ユリイカ6月号(青土社)に「故 旧哀傷・盛田昭夫」と題する文章を寄稿されました。ご本人のご承諾を頂きましたので、ここにご紹介させて頂きます。尚、長文のため3回に分けて掲載いたします。

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 盛田さんはその輝くようなふさふさした銀髪ときりはなしては思い出せないのだが、同時ロマンス・グレーという言葉とも結びついている。「ロマンス・グレー」は『日本国語大辞典(第二版)』(小学館刊)には、「魅力ある初老の男性を、白髪まじりの頭髪に象徴させて呼ぶ語。またその頭髪。昭和29年(1954)飯沢匡の同名の戯曲から流行した語」とあり、舟橋聖一「白薊」(1956)中の「ロマンスグレーならばまだしも、既にシルバーヘヤーとなるものもあれば」などという用例を示している。ふしぎなことだが、飯沢匡は盛田さんの頭髪、容姿に触発されて「ロマンス・グレー」という言葉を思いついたのだ、と私は思いこんでいた。たしかに盛田さんはその頭髪に白髪がまじるのがお年のわりに早かったらしいが、1954年はまだ33歳だから、1954年当時すでにロマンス・グレーだったとは信じがたい。

後に記すとおり、私が盛田さんにはじめてお会いしたのは1959年であり、それでもまだ38歳だから、そのとき早くもロマンス・グレーだったとは思われない。しかし、私はたしかに盛田さんが、こういう髪をロマンス・グレーというのだ、と誇らしげに話すのをお聞きした記憶がある。『日本国語大辞典』の定義にみられるとおり、「ロマンス・グレー」は魅力ある初老の男性についていわれる言葉だから、私が当初お目にかかってから数年後には盛田さんも、本来の意味でいう「初老」に達していたから、そのころ、お聞きしたのかもしれない。ふつうなら若白髪といって恥じるところを、盛田さんは、じぶんこそロマンス・グレーと称して、その頭髪に他人が羨望するよう仕向けたのではないか。思想、信条は後にふれるとして、盛田さんは、後にすっかり銀髪になってからも、一目見たら忘れがたい、ふかい印象を与える容貌をお持ちであった。盛田さんはひどくお洒落であったにちがいない。

     *

『私の昭和史・戦後篇下』31章に、私がソニーと関係をもった経緯を記しているので、同じことをくりかえすわけだが、要約すれば次のような事情であった。
 1959(昭和34)年5月15、16日の両日、アーマー・リサーチ・インスティテュートと称する研究所の申立により、その有する特許第215574号を理由に、ソニーの仙台工場に証拠保全手続が行われた。アーマー・リサーチは全世界的に上記特許にかかる発明についてミネソタ・マイニング・アンドマニファクチュアリング社(いわゆる3M(スリーエム)社)に独占的なライセンスを許諾していた。この特許発明は磁気テープの製造方法の発明であり、3M社がアーマー・リサーチの名の下に、ソニーが仙台工場で実施していた磁気テープの製造方法を探り出そうとして申立てたものであった。現在ではこのような探索的目的の証拠保全申立は許可されないのが常識となっているが、特許紛争が未熟な当時、ことに特許紛争に不慣れな仙台地裁は証拠保全命令を出し、3Mの代理人、清瀬一郎弁護士以下の人々が、裁判官らとともに、突然ソニー仙台工場を訪れたのであった。ソニーの顧問弁護士田辺恒貞さんが仙台工場に駈けつけ、理論はともかく、追いかえし、証拠保全手続きを拒否することができた。

  証拠保全申立は不成功に終わったものの、ソニーをはじめとする日本の磁気テープメーカー五社は、3M社が次には特許権侵害禁止の仮処分命令を申請するか、訴訟を提起するであろうと推測し、その対策を五社合同で協議し、会合をかさねていた。私の事務所は当時東京電気化学工業と称し、現在はTDKと称している会社の特許業務を取扱っていたので、私はこの五社会議に出席し、ソニーの仙台工場長高崎晃昇さん、業務課長として特許業務を担当していた四元徹郎さんらと昵懇になった。

 やがて私はソニーの対策会議に出席するよう依頼された。盛田さんは当時副社長であったが、アメリカ出張中で、田島道治会長、井深大社長以下、高崎さん、四元さんらが出席し、私はこの席で、ソニーの製造方法がアーマーの特許を侵害しないとする主張を説明した。ソニーの製造方法がアーマーの特許を侵害しないと私は確信はもっていなかった。しかし、私がくみたてていた、侵害しないという理由はそれなりに筋も通り、裁判所も耳を貸してくれるであろうと考えていた。席上、井深さんはじめいろいろの方から質問をうけた。同席した方々の中、ご年配の方から二、三的確な質問をいただいた。その方が田島さんであった。若いころは後藤新平の秘書を務めた後、財界に入って要職をかさね、初代宮内庁長官を務めた方だけあって、田島さんは鋭く、かつ、物事の理解が早い方であった。当時の磁気テープ事業がソニーの死命を制する重要な事業だったこともあるのだろうが、田島さんは決して会長として名前を貸していたわけではなかった。親身になってソニーの経営に関与なさっていた。そういう田島さんに私は好意をもち、それだけ田島さんが親身になって経営に関心をもつソニーに私は好意をもった。
 田島会長が、中村弁護士は理工系の出身か、と訊ねておいでになりましたよ、と会合の後、私は聞かされた。そんな誤解によって、私はソニーの方々から信用されたのであった。
 なお、この特許問題は問題となった日本特許に対応するアメリカ特許が無効と宣言されたことから、アーマーは関心を失った。その後、いろいろの経緯はあったが、この特許問題はわが国で訴訟に発展することはなかった。

     *

 その後、盛田さんが帰国なさって間もないころ、呼びだされて盛田さんにはじめてお目にかかった。品川御殿山の木造二階建の西洋館の二階の一室を井深さんと盛田さんが二人で使っておいでになった。その部屋の左右の隅に、井深さんと盛田さんのお二人がそれぞれ机を構えていた。この建物は「わかもと」の創立者長尾欽弥氏の旧宅であった。どういうわけか、「わかもと」という商標はわかもと製薬の会社名義ではなく、長尾氏個人名義になっていた。そのため会社と長尾氏との間に紛争を生じ、私は会社側で、名義を会社に移転するのに交渉し、折衝したことがあった。ずいぶん苦労した案件だったから、この建物は私にとってもずいぶん因縁ふかい建物であった。

 井深さんも盛田さんも作業衣を着、胸に名札をつけていた。会長、社長、専務といった役員が、一社員と同様、作業衣を着、名札をつけるということはかなり異例である。ソニーは開かれた、風通しのよい会社だ、という感じをもった。
 たぶん、そのときは、いざというときは、ソニーを代理してもらいたい、といったほどの依頼の他、私の事務所、職務状況をはじめ私の人間性をみるような質問をうけ、それらにお答えするほどのことで終わったのだと思うが、記憶は確かではない。

 私は盛田さんから、ソニーに入社しないか、と誘われたことがある。法務部長、取締役として迎えいれたいということであった。アメリカの会社には必ず社内に弁護士がいる。ことにGeneral Legal Counselという肩書をもつ弁護士は、彼の承認がなければ重要な契約は締結できないほどの権限を与えられている。ソニーもそういう企業に育てていくつもりだ、ということであった。

 これはおそらく数年間、ソニーの仕事をした後、1960年前後のことではなかったか、と思われる。私はまだ三十代であった。とびあがるようにうれしかった。しかし、私は中松先生に恩誼があり、親愛の感がつよかったし、事務所の経営に責任を感じていた。丁重にご辞退し、外部からお手伝いさせていただきたい、と申し上げた。大賀さんに対する勧誘の執拗さからみて、私に対する申出のほんの一寸した思いつきであったようにみえる。私はこのことを盛田さんが私をみこんでくださった自慢話として記しているわけではない。盛田さんは能力があると思うと、誰彼となく勧誘したり、応援したりするのがお好きであった。むしろ、1960年前後に社内弁護士の重要性に気づいておいでになった盛田さんの先見性に、私はあらためてふかい感銘を覚えるのである。

     *

江崎玲於奈さんのトンネル・ダイオードの発明のアメリカ特許の帰属について紛争が起こったのは、私がはじめて盛田さんにお会いしてから間もなく、江崎さんがIBMへ移籍なさった直後のはずである。職務規程により、いわゆる職務発明は会社に譲渡することと定められているのが通常であり、ソニーでもそのように定めていた。ただ、アメリカ特許出願は、発明者個人の名義で願書を作成しなければならない。そこで、出願と同時に譲渡証を作成、会社の名義に移転するのが通例だが、たまたまトンネル・ダイオードの発明のアメリカ特許出願については譲渡証を作成していただくことを失念していたらしい。IBMへの移籍に先立ってソニーの特許担当者が譲渡証の作成をお願いすると江崎さんが拒否なさった。私は四元業務部長と協力、訴訟の準備をしていた。

 すると、訴訟の準備が整った段階で、江崎君とは円満に話をつけたから、もう訴訟は必要ない、と盛田さんから言われた。そして、その時に盛田さんが江崎さんへお出しになった直筆の手紙を見せてくださった。肝心の用件は別として、私の記憶に生々しいのは、その手紙の中に、盛田さんが、厚木に工場敷地を手に入れたことを知らせ、見渡すかぎり土地の果てまで、これがソニーの工場として使えるのだと思うと、身奪いする、といった感動が率直に書かれていた。ソニーにとって、厚木工場敷地の入手はそれほどの事件だった、と思うと、感慨ふかいものがある。

 江崎さんが権利譲渡を拒否した心情は、数年前、中村修二さんが青色ダイオードの発明で莫大な額の支払いをうけた職務発明に対する報償の問題と同種のことかもしれない。トンネル・ダイオードの発明はノーベル賞に値する偉大な発明だったにちがいないが、商業的に利用されることはほとんどなく、ローヤリティ収入も数百万円程度だったと聞いている。ただし、この発明によりソニーの技術開発力が評価され、株価を大いに上昇させたことは事実である。

     *

 1961年11月、私は一ヶ月の予定でイタリー、ミラノに滞在した。私のはじめての海外旅行であった。どういう動機であったか、盛田さんが中松先生と私を、武原はんさんが当時は赤坂で営業していた料理店はん居にご招待してくださった。井深さんもご一緒に主人役をつとめてくださったように憶えているが、確かではない。その時、盛田さんから海外旅行の心得をいろいろ教えていただいた。

 盛田さんは自身の経験談をお話しくださった。飛行機に乗りこむときには手荷物の重量制限がある。始終、制限重量を超えてしまうので、荷物の一部をあらかじめコイン・ロッカーに入れ、その他の荷物だけで検査をうけ、許可証をもらってから、コイン・ロッカーから荷物をとりだして、飛行機に搭乗するといい、ということであった。ソニーの初期、盛田さんご自身が商品見本を持って、アメリカ各地に販路を開拓中のことだったろう。後年、盛田さんはソニーの自社機をお使いになり、また飛行機をハイヤーしてお使いになっていたようだが、初期には、そんな貧乏旅行も体験なさっていた。

 『キミもがんばれ 盛田昭夫さんに勇気をいただいた者たち』と題する回想録がある。この題名は盛田さんから「ボクもがんばるからキミもがんばれ」と激励されたという言葉に由来する。盛田さんを慕う八十数名の方々が思い出話を寄せているが、その中の大塚博正という方の「判断とアクションの速さに助けられる」という文章の末尾に次のとおりエピソードが記されている。

「そういえば先日、作家の城山三郎さんの話を聞く機会があったのですが、彼の話の中にも初めてアメリカに行ったときの話があり、偶然、盛田さんと同じホテルに泊まったらしく、当時でも(40年前)$5の部屋に泊まったら、盛田さんも同じで、食事はすべてホテルの外の安い外食だったというお話をされていました。日本の経営者もこんな苦労をして日本の経済発展のために努力したから今日がある、とおっしゃっていました。」

 ついでに思いだしたが2001年11月ソニーの会長であった大賀典雄さんが北京でオーケストラを指揮中脳梗塞で倒れたことがあった。急遽特別機を仕立てて日本へ急送、その後、療養の甲斐あって大賀さんは復帰なさった。大賀さんがそれだけソニーにとって大事な方だったにちがいないが、営業活動や財界の用件で北京に赴き、脳梗塞に倒れたのならともかく、たんに趣味にすぎないオーケストラの指揮中の発作のために、これだけ手厚い面倒をみることになったのは、草創期のソニーを思うと夢のようだ、と私は暫く感慨を催したのであった。

(第二話につづく)

青土社 ユリイカ 6月号(私が出会った人々 *6)より

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