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変革への勇気「『日本型経営』が危ない」(1992年)
~「集中豪雨的輸出」ではなく「集中吸引的輸入~
私は戦後一貫してモノづくりの最前線に身を置き、革新的な技術と高い品質を誇る製品を日本のみならず、世界の消費者のもとへ合理的な価格で提供していくことに、最大の努力を傾注してきました。これはなにも私どものソニーという会社にかぎらず、日本の多くのメーカーに共通していえることです。
そして、「欧米産業に追いつけ、追い越せ」の大号令のもとに、技術開発、製品開発、生産性向上、品質管理といったさまざまな側面に日本メーカーはあらゆるリソースを投入し、気がついてみると、自動車・エレクトロニクス・工作機械などさまざまな分野で、日本製品は驚くほどの競争力を世界的に誇るようになりました。高品質・高性能の日本製品は、欧米企業の同レベルのライバル製品と比較すると、価格も比較的安い。その結果、ライバルを制し市場において成功を収めてきたのです。
しかしながら、こうした日本製品の国際競争力の高まりに呼応する形で、日本企業、ひいては日本に対する欧米諸国での風当たりはますます強くなってきているのが昨今の状況ではないでしょうか。
日本の製品の欧米市場における圧倒的な競争力はいまや政治問題化し、その市場へのこれ以上の日本製品の進出を、法的・政治的に阻止しようとする動きが欧米各国で勢いを得ている現状です。そして前述のように、日本を見る欧米の目はじつに厳しいもので、各界からの声高な日本批判は連日のように世界のマスコミをにぎわしています。
たとえば、フランスのクレッソン首相は、「日本は世界征服をたくらむ侵略者」であると決めつけておりますし、また米国のリウ゛ィジョニストといわれる人々を中心に、日本は世界各国とは相容れないルールを持つ特異な国として“日本異質論”が展開されています。
一方、こうした批判を耳にする日本企業のトップの側は、「一生懸命努力して、いいものを安い価格でいち早く提供することのどこが悪いのだろう」という疑問を拭い去ることができません。日本の製品の輸出がひところ「集中豪雨的」だと避難され、政府がメーカーに対して、そのような輸出を慎むよう行政指導を行ったことがありました。
そのとき私は、日本の政府自ら「集中豪雨的」という表現を使って企業の行動を指導するということに反発を覚えた記憶があります。というのも、われわれ日本企業も欧米企業と同様に、自由経済システムのもとで市場原理にしたがってビジネスを行っているわけで、消費者の側が求めないかぎり、企業の側が「これを買いなさい」などと消費者に強制できるわけがないからです。
すなわち日本の製品がそれだけ海外に出ていくからには、海外の人々からの求めがあるはずで、「集中豪雨的輸出」といわれた実態は海外市場の「集中吸引的輸出」ではないか、というのが私の考えでした。
ひとつ例をお話しましょう。かつて日欧間で日本製ビデオの規制が問題になったときのことです。その当時のEC副委員長で私の友人でもあるダビニオン氏とある日論議をしていると、彼は「日本からビデオが集中豪雨的にECになだれ込んでくる」といって日本を批判するわけです。
それに対して私は「なぜ日本に対して怒るのですか。ヨーロッパの人たちがビデオをほしいと思ったときに供給できるのは、主として日本メーカーしかないのです。だから日本から大量に買いつけが行われ、モノがでていくのであって、日本企業を批判するのはおかしいのではないですか」と反論しました。
そして次のような点を指摘しました。すなわち、日本の各メーカーは10年、15年前からカラーテレビの次はビデオの時代になると予想してそれぞれ開発に着手し、次々と関連特許を出願していたこと、そのころヨーロッパのメーカーはビデオにほとんど関心を持っておらず、開発に取りかかっていたのはフィリップスをはじめわずかなメーカーでした。
「したがって。それから十数年経って、世の中の人たちがビデオをほしがるようになったときに、それを高品質・低価格で提供できたのは日本メーカーしかないから、日本から集中的に製品が出ていくのです。だから、責められるべきはこれまで準備してこなかったあなた方ヨーロッパのメーカー自身であって、日本が集中豪雨的輸出をしたと文句をいうのはおかしいのではないですか」ということを私は申し上げたのです。
(Vol. 5に続く)
WAC「21世紀へ」より抜粋