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『「No」と言える日本』について(1989年)
〜私が本当に言いたかったこと〜
『「No」と言える日本人』(石原慎太郎氏との共著、光文社刊)が、いまアメリカでいろいろ話題になっている。HDTV(高品位テレビ)の公聴会に先立って行われた記者会見で、英訳資料が配られ、それを読んだ一部のアメリカ人が「反米的だ」といったという話が伝えられています。
あの本がすぐアメリカで翻訳されるというのは、アメリカ人が日本のことを非常に気にしているという、一つの証拠ではある。われわれの同意なしに翻訳したんだから、いわゆる海賊版なのですけれど。
あの本の成り立ちは、たまたま石原さんの講演会があって、私もその会で話したんです。そうしたら速記録を読んだ出版社が、とてもおもしろいから本にしませんかということになり、もう一度、長時間2人で話をした。
話の進め方としては、丁々発止と議論をやったわけではなく、一つの問題に対して、私はこう思う、石原さんはこう思うという形で話をしていったわけです。本のもとになった講演会でも、石原さんがしゃべり、私がしゃべる、それぞれに質問がきて、それぞれが答えるというスタイルでした。
ですから、本のつくりも対談ではなく、双方のリレー・エッセイに仕立ててある。石原さんは石原さんのお考えを述べられたし、私は私の考えを述べた。で、私の論旨と論点の対米批判に関する部分は『MADE IN JAPAN』(朝日新聞社刊)のなかで、はっきりいっていることと同じなのです。むしろ『MADE IN JAPAN』ではあまりふれていない、日本への批判にページをさいている。
たとえば、アメリカの日本企業は、現地のコミュニティに溶け込む努力をしなければならない。PTAの集まりがあるなら、アメリカ人と同じように、夫婦で出席すべきなのに、日本人は奥さんだけが顔を出して、日本人の奥さん同士でおしゃべりをして帰ってくる。これはまずいのではないか。“郷に入っては郷に従え”じゃないけれども、コミュニティ・サービスを怠ってはいけないのではないか、といっている。
日本政府に対しても注文を出しています。世界のなかで果たす役割をもっと考えなければならない。ODA(政府開発援助)を例にとると、GNP比率が世界18カ国中15番目(1986年)、しかも、いわゆるヒモつきではない無償供与の比率は先進国中最下位(1985年)である。これでは世界第2位の経済大国として恥ずかしい。
アメリカはキリスト教の影響からか、博愛の精神を非常に重視している。困っている人は助けてやらんといかん、知らぬふりをして助けないのは悪いやつだという考え方ですね。 われわれは日本が困ったときに助けた、日本は金持ちになったのに、困っている相手を助けようとしない。日本は悪いやつではないかという拒否反応がある。『「NO」と言える日本』のなかで、私はこうした日本批判をしているわけです。
そのあたりのことは、アメリカ側でも了解していて、「タイム」「ニューヨーク・タイムズ」「フォーチュン」等の紹介に目を通したかぎり、リーズナブルに私の書いたものを取り上げているという印象を受けました。
むしろ、日本の特派員の方が騒ぎ立てているきらいがあって、ある日本の新聞には「米政府、議会関係者は石原氏の論調を『自信過剰』と見ており、盛田会長が共著となっていることから、先端技術分野で世界制覇を狙う日本の一大戦略構想を政・財界が公にしたものと警戒している」という報告がある。
しかしそれは思いすごしで、このような本を出版したことで世界制覇だなんていわれたら、もう何もいえなくなる。盛田も、石原氏と組んでアメリカ攻勢に乗り出したのかという人もいるそうですが、それはまったくの誤解です。
(Vol. 11へ続く)
WAC「21世紀へ」より抜粋