昭和51年、ソニーは井深大が会長職を退き、名誉会長となり、盛田が会長に、岩間和夫が社長に就任した。このとき、岩間が盛田の義弟(妹の夫)だったことと、盛田の実弟ある盛田正明が幸田工場長だったことから、いよいよ盛田の独裁政権が誕生する、あるいは盛田はソニーを盛田家の同族会社にするといった声が多く出された。それに対して盛田は「私は独裁者でもありませんし、なろうとも思いません。独裁者というのは、私に言わせれば、大天才でないと務まらないものなんです」と、答えている。
実際、このときの人事異動で盛田は、6人の代表取締役全員からなる「経営会議」を設置、集団指導体制を敷いている。盛田はこの会議のことを「私は、経営会議のメンバーの知恵の上に乗っかって、判断を下すだけです」と語っている。
さらに、経営諮問委員会なるものも設置している。これは、社外から小山五郎三井銀行会長(当時)、牛場信彦元駐米大使(のちに国務大臣)、柏木雄介東京銀行副頭取(のちに頭取)らにより構成され、「私が独裁的というか、独善的というか、そういったものに陥らないために」チェックする機関であるというものだった。
このときの人事で注目に値するのが、盛田が最高経営責任者(CEO = チーフ・エグゼクティブ・オフィサー)制度を導入し、自らCEOを名乗ったことだ。CEOとは、当時、アメリカで言われ始めたもので、経営の最終責任を持つ役職を示す。ソニーでは会長である盛田が、CEOとしてソニーグループ全般の経営方針決定にあたり、社長である岩間が最高執行責任者(COO = チーフ・オペレーティング・オフィサー)として日常業務全般の執行責任を持つという、役割分担がなされた。このCEO制度は今日でこそ採用する企業が少しずつ出てきたが、今から20年も前に採用していた盛田の先見の明をここでも感じざるを得ない。
ソニーという会社は確かに盛田カラーが強い。しかし、だからと言って盛田の独裁と言うのは当たっていない。当時も今日でも、偉大な盛田の精神が隅々まで及んでいる、という表現が適切なのであろう。それだけ盛田が経営者として優れ、影響力が大きかったということであろう。
「ソニー・マガジンズ 盛田昭夫語録より(1996年)」